ブルースの名盤 「ミシシッピ デルタブルース編」

 

黒人奴隷解放から始まったミシシッピのデルタブルース 黒人の魂の音楽

 

 

1.デルタブルース 最も泥臭いブラック・ミュージックの誕生


ミシシッピの大きな川を挟んだ広大なデルタ地帯で発生したデルタ・ブルースはブルースの中でも最も古い歴史を持つ。

 

前回紹介したシカゴ・ブルースが都会的に洗練されたエレクトリックギターを主体とした音楽とは異なり、このデルタ・ブルースは、アコースティックギターで弾き語りのような形で演奏され、ボトルネックを使ったスライドギターを楽曲中に取り入れた新しい黒人音楽スタイルを築き上げていった。シカゴ・ブルースとは異なり、デルタ・ブルースはカントリー色の強い誰にでも口ずさみやすいポピュラー音楽の曲調である。

 

このデルタ・ブルースの曲調、リズムの感じを掴むためには、最も有名なロバート・ジョンソンのクロスロード(後にエリック・クラプトン擁するCREAMがカバーしている)という楽曲が最適である。そこには、ゴスペルから続く奥深いアフリカ民謡のブラックミュージックの精神が残映している。

 

デルタブルースの始まりは、ミシシッピの白人の所有する広大な綿花畑で黒人奴隷として雇われていた男達が始めた労働歌(プランテーションソング)としてうたっていたフィールドハラーという音楽を発祥とする。

 

それが黒人教会で歌われるゴスペルと結びついてブルースが生まれたという説。そして、白人のバラード音楽と結びついてブルースが完成したという説もある。どちらにせよ、ミシシッピで始まったブルースというのは、黒人が奴隷制度から解放される唯一の手段として存在していた。

 

これは、ミシシッピという土地が20世紀になっても、比較的黒人差別が酷い地域であり、辛く厳しい労働の気慰みとして、労働歌、フィールドハラーが存在し、その次に、ブルース音楽が発生した。そしてこのブルースの始まりについては、ゴスペルとともにこのフィールドハラーという黒人労働歌(プランテーションソング)抜きにしては語れないのである。

 

このフィールドハラーに詳しく述べるためには、アメリカの労働歌、そして、黒人奴隷制度について触れておかねばならないかもしれない。 

 

 

2.アメリカの黒人労働歌(プランテーションソング)の発生

 

多くの方が御存知の通り、19世紀、アメリカの各州に住む黒人(アフリカ系アメリカ人)奴隷達はアフリカから奴隷として連れてこられた。

 

 

その黒人たちは、特に、南部地域、例えば、ミシシッピ川を挟んだデルタと呼ばれる地域では綿花農場(プランテーション)の農場主である白人の元で奴隷労働に従事していた。

 

朝から晩まで食事以外はひっきりなしに、斧を地に振り下ろし、地を耕し、綿摘みを余儀なくされていたのである。黒人たちは、この辛く厳しい労働の中に、音楽、そして歌という一種の気慰みを見出そうとした。 

 

 

 

以上のように、綿摘みをおこないながらその規則的なリズムに併せて、シンプルな黒人労働歌(プランテーションソング)をみなで愛おしくうたう。

 

これは、この辛く厳しい長時間の労働の苦痛を軽減する効果があった。つまり、黒人音楽、ソウルやR&Bに代表されるグルーブという表現があるが、これは労働中の規則的なリズムからもたらされるビート、これは、斧を振り下ろす際の大地のヒットあるいはストライク、肉体や骨格により、肌で直に感ずる自然な拍動(ビート)でもあったのだ。

 

一般に黒人が他の人種に比べてリズム感にすぐれているといわれるのは、その先に、ロック、ファンクあるいは、ヒップホップが生みだされた理由というのは、おしなべて彼等の音楽的なルーツによる。それは、アフリカの儀式音楽がリズミカルであり、さらには移民としてアメリカ大陸に渡った人々の生活習慣の中で培われた文化的なリズム、長いながい労働歌の時代の中で定着していった習慣性によるものというふうに定義づけられるのかも知れない。

 

また、このプランテーションソングの他にも、20世紀初頭までは黒人の鉄道工夫たちのうたう鉄道の労働歌、「ハンマーソング」というのも存在し、これらの労働歌「ハンマーソング」は労働と何ら関係のない題材、女性、セックス、恋愛について、赤裸々に歌われることが多かった。 

 

 

この歌の形式は、デルタの最初期のブルースマンにはそれほど見られない特徴であるが、明らかに、このハンマーソングの音楽にはブルースの原型が見られる。また、ミシシッピのデルタ地帯からシカゴへと二つの地域を越えて活躍した伝説的なブルースマン、マディ・(ミシシッピ・)ウォーターズの重要なテーマとして後に引き継がれている。

 

そもそも、黒人労働歌というのは、主にアフリカ大陸の民族音楽をルーツとしている。アフリカの音楽はポップスのような消費的な音楽でなく、儀式の一部として取り入れられた社会的機能を持ち合わせていた。

 

葬式の際に歌われる楽曲、祖霊とのコミュニケーションを取るための楽曲、狩猟の際に歌われる楽曲等々、様々な形式によって分別され、社会生活の一部の中にふつうに定着した音楽だった。そのアフリカ音楽は、アメリカに奴隷労働社として連れてこられた黒人たちのDNAに定着し、新天地アメリカにおいて、彼等は、新しい形式、綿摘みの際の労働歌のスタイルを生み出すに至った。

 

これは、ヨーロッパからの移民が多く分布するアパラチア地方で発生した白人カントリー音楽に対する、黒人カントリーの原初とも言える。

 

そして、この頃、うたわれていた黒人労働歌(プランテーションソング)は、殆ど現存していないが、黒人奴隷労働制が敷かれていた19世紀の中頃から末葉にかけ、南北戦争(ザ・シビルウォー)が幕引きを迎える頃までは黒人労働社会全体に敷衍していた。少なくとも、黒人労働歌というのは、19世紀期末までは、ごく自然に労働中の讃歌として黒人(アフリカ系アメリカ人)の社会生活の一部として定着していたのである。

 

3.南北戦争と奴隷解放宣言


黒人たちは、地主である白人の元で長らく奴隷労働を強いられていたが、やがて彼等の命運に転機が訪れる。

 

それが南北戦争下においての奴隷解放宣言であった。

 

この時代において、奴隷制度の存続についての議論が合衆国内において重要な政治的問題として巻き起こり、ミシシッピやフロリダといったアメリカ南部州では、黒人奴隷制度を維持せよという主張が沸き起こっていた。

 

これは、機械工業が盛んな北部と、依然として旧時代の農業生産を経済の基盤とする北部と南部の州の社会的経済の回り方の相違によって生じた内戦であったように思える。すなわち、デトロイトのように、イギリス式の機械産業へ移行せんとする州と以前の旧来の社会構造を維持しようとする南部州の経済戦争でもあったのだ。このたぐいの論争は面白いことに、以前のドナルド・トランプの大統領選でも同じような論争が沸き起こっていたことを忘れてはならない。黒人奴隷制の主張を保持せんがため、ミシシッピやフロリダをはじめとする、アメリカ南部の十一の州が北部の州に強い反発を示し、泥沼ともいえる内戦状態に二十世紀後半の合衆国全体は陥っていたのだった。

 

そして、この泥沼化しつつあった南北戦争の混乱を抑えるべく、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは、かなり強い布告を大統領府の権限により発布する。 これは一般に奴隷解放宣言と称され、アメリカ近代史でも最も重要な布告と言えなくもないかもしれない。以下、エイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言の公式文書を引用する。

 

奴隷解放宣言

アメリカ合衆国大統領による

布告


「西暦1863年1月1日の時点で、その人民が合衆国に対する反逆状態にあるいずれかの州、もしくは州の指定された地域において、奴隷とされているすべての者は、同日をもって、そして永遠に、自由の身となる。陸海軍当局を含む合衆国の行政府は、かかる人々の自由を認め、これを維持する。そしてかかる人々が、あるいはそのうちの誰かが、真の自由を得るために,,行ういかなる活動についても、これを弾圧する行為を一切行わない。 

・・・ 

 

以下略

                          AMERICAN CENTER JAPAN  About THE USA 「奴隷解放宣言」(1863年)より引用”


この布告がおこなわれた二年後、南北戦争は圧倒的な軍備兵力を擁する北部の合衆国側の勝利に終わり、アメリカの有史以来一度きりの内戦は終結した。

 

上記の大統領の宣言を見ても分かる通り、リンカーンが布告した黒人奴隷解放宣言により、黒人は、表向きには、白人の奴隷でなくなった。

 

しかし、これは飽くまで表面上の声明にすぎず、南部の一部の州では、この二年後の南北戦争終了後、どころか、二十世紀初頭になっても根強い黒人差別の風習が残った。

 

アメリカでの黒人の人権の確立、この問題については、マルコム・Xやキング牧師の公民権運動後まで解決をまたなければならない。もちろん、これは近年のミネソタの白人警官の黒人射殺の事例を見ても、アメリカ社会全体で未だ収まりのつかない社会問題であると付け加えておく必要がある。

 

 

4.ミシシッピ、デルタ地帯  労働歌から生みだされたブルース

 

テキサスなどの州においては、二十世紀に入ると、比較的、黒人差別は徐々に是正されていくものの、この黒人の奴隷労働制は各州で続き、特に、ミシシッピのデルタ地域ではさんさんたる状況だった。

 

黒人(アフリカ系アメリカ人)は、以前まで続いていた昼夜たえず労働を強いられる生活からは解放された。

 

しかし、黒人の奴隷的労働はその後も続いた。黒人たちはザ・シビルウォー中の奴隷解放宣言により、その後、19世紀後半にかけて、それまでの住居と収入源を失い、社会的な地位の向上などは夢のまた夢、19世紀末までの奴隷労働制が敷かれていた時代よりもはるかに酷い貧困に陥った。

 

これにより、黒人たちは、自ら進んで経済の潤いを求め、再び、白人たちの元で以前と同じような肉体労働に従事せねばならなかった。

 

二十世紀に入っても、ミシシッピ流域のデルタ地域一面にひろがる広大な綿花畑(プランテーション)では、農場主の白人に使役される数多の小作農の黒人という奴隷解放宣言前と変わらない光景が続いた。黒人たちはもちろん、白人たちのように学校に通い、社会的地位を獲得出来ず、白人の農場主に小作農として再び雇用されるしか生き抜く術が見つからなかったのである。

 

合衆国の表向きの社会制度が変わっても、20世紀に入っても、この内在的な人種による差別という社会問題は引き続いていた。

 

そして、その中で黒人たちは、以前と同じように、日々の暮らしの中に喜びを見出そうとしていた。農場での労働に規則的なリズムを与え、斧を使用した農耕作業をはかどらせるため、黒人たちにより大勢でうたわれる黒人労働歌(プランテーションソング)は、依然として彼等の風習として残っていたが、その中の一部に、ひとりで、ギターの弾き語りのように歌をうたう独特な形式が生み出された。

 

これが「フィールド・ハラー」と呼ばれる労働歌で、これは農場のゴスペルともいえる儀式的な労働歌と異なり、即興歌であった。

 

農業の際の気慰みとしてうたう歌、労働よりはるかに重要な芸術であり、尽くせぬ内的な感情の表現といえ、ミシシッピの黒人たちにとってなくてはならぬものであった。

そして、このひとりでうたわれる労働歌「フィールドハラー」こそが、Bluesの源流になったのである。

 

この音楽形式には、他の一般的な労働歌のように、黒人たちの、叫び、合いの手のようなものが取り入れられている。小節の合間に「叫び」を入れて独特なグルーブを生み出すというブラック・ミュージックらしいスタイルは、綿々と引き継がれていくが、この源流というのは、ブラックミュージックの中に流れる重要な精神や概念、奴隷労働として使役される際の苦しみ、憂い、悲しみ、怒り。反面、それらの感情を音自体の楽しみにより吹き飛ばそうとする「生きることにおける賛美」にほかならない。そして、これらの音楽には、この音楽を生み出した黒人労働者たちの魂の叫び、ゴスペルにも似たソウルが真摯にこめられているのである。

 

この瞬間、黒人教会でうわれれる、ゴスペル、そして、アメリカでの白人音楽バラードと結びつき、黒人文化としての音楽史上はじめて大衆的な音楽「ブルース」が誕生した。

 

そして、これは、アフリカ大陸から移民をしてきた黒人達の白人社会という構造に対抗する新たな芸術形式の確立の瞬間であった。

 

それまで、ブラック・ミュージックの中において、人間としての権利を獲得するための手法は存在しなかったが、ここで初めて、黒人たちは音楽を教会音楽やアフリカ音楽という生活の社会的機能の枠組みの中に取り入れられた音楽から解放し、世界に対し、個人としての権利を主張する重要な音楽の形式「Blues」を発生させたのである。

 

最初のブルースマンの先駆けは、これらのプランテーションで働く小作農の中から誕生している。チャーリー・パットンという、最初のミシシッピのブルースマンの英雄がデルタ地帯で台頭した。

 

デルタ・ブルースの第一人者 Charlie Patton

 

歴史上最初のブルースヒーローのひとり、チャーリー・パットンは、レコード生産技術が始まった時代、多くの録音を遺している。

 

このブルースマンの服装スタイル、上下をカチッとした背広姿を着込み、革靴を履き、アコースティック・ギターを抱えて演奏するスタイルは、デルタの他のブルースマンに引き継がれたのみならず、ロックンロールのアーティストにも大きな影響を与えた。

 

黒人たちは、この時代、昼間の肉体労働の後、夜な夜なブルースを奏でた。このブルースマンというのは、民衆の中での黒人のヒーローの誕生の瞬間である。そして、ブルースの始まりは、そういった仲間内の中で起こったものと推察される。昼間の労働の後、夜の中で、黒人労働者の仲間内で、ブルースを夜な夜な演奏していたのがそのはじまりであったのだろうと思われる。

 

ブルースの原初の音楽性については、労働歌としての規則的なビートを刻み、そこに、アコースティックギターで弾き語りがなされ、また、そこに瓶口を使ったスティール・ギターのフレーズが楽曲の中に挿入される。歌というのも、普通にうたうといよりも、ぼそぼそとしたつぶやきに比するものであり、その合間に激烈な叫び、霊的、ゴスペルにも比するスクリームが込められる。これは、白人社会において虐げられて来た人々の瞬間の生命の迸りの瞬間が「叫び」に表れ出ている。この「叫び」のスタイルは、一般的に、このデルタ・ブルースを完成させた伝説的ギタリストと称される”ロバート・ジョンソン”の多くの楽曲にも顕著に見られる音楽性の特徴である。

 

概して、このミシシッピ州で最も泥臭いデルタ・ブルースが発生した理由というのは、多分、黒人の権利獲得のための出発、第一歩にほかならなかった。そして、これは音楽史にとどまらず、人類史として概観した上でもなおざりにできない音楽の芸術形式が発生した瞬間といえる。

 

黒人のみで構成された教会というコミュニティーでしか意味を持たなかった社会における「横構造」のアフリカ音楽を源流とする「ゴスペル」が「黒人労働歌」に姿を変え、それからさらに、白人音楽のバラードと結びついて「ブルース」という形式に変わり、その後、歴史的に初めて大衆音楽としての歩みを始め、デルタ地帯を中心に活躍したマディー・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカーらブルースマン一派は、ミシシッピ川流域のデルタ地帯を去り、黒人(アフリカ系アメリカ人)としての権利向上を求め、大きな表現の機会を求め、北へ、北へと向かい、最終的に、大都市シカゴにたどり着いた。

 

これは、黒人達の長い時間をかけて行われる社会における「縦構造」の権利獲得のための第一歩でもあった。

 

上記、二人の重要なブルースマンを失ったデルタブルースは、徐々に衰退の様相を呈すが、その後、ブラック・ミュージックは合衆国全体に広がった。然り、ウォーターズ、フッカーの二人のシカゴへの移住は、黒人音楽家達の長いながい音楽の冒険の始まりに過ぎなかったのである。 

 


5.デルタ・ブルースの名盤

 

デルタ・ブルースは、大衆性、享楽性の強いシカゴ・ブルースとは違い、カントリーに代表される民族音楽、ルーツ音楽としての意義のもつ作品ばかり。

 

このブルースには、音楽における歴史資料として重要視されるべき名盤が多く、聴いて楽しめるのは勿論、歴史資料として傾聴してみる価値もあります。クラシック音楽のように「一般教養として聴く」という聴き方も出来なくはないでしょう。無論、以下に列挙する名盤の他にも、ウィリー・ブラウン、ジョン・ハートの楽曲をはじめ数多くのブルースコンピレーションの名盤が見いだされるかと思いますが、ここでは、デルタ・ブルースの入門編として欠かせない音源を幾つか列挙していきたいと思います。



・Charlie Patton

 

「The Best of Charlie Patton」

 



 

チャーリー・パットンはミシシッピ州、エドワーズ生まれのブルースシンガーであり、デルタ・ブルースの生みの親とされる。

 

綿農業従事者の一家で育ち、プランテーションの仕事に若い頃から従事していたが、夜な夜な、パーティーに出かけ、セッションに繰り出し、ヘンリー・スローンにギターの手ほどきを受け、ギタリストとしての腕を磨いた。

 

チャーリー・パットンは、1929年インディアナ州リッチモンドのゲネット・スタジオで最初のレコーディングを行う。この中の「Pony Blues」はパラマウントから発売され、彼の代表曲となった。

 

パットンは、デルタの第一人者としてしられているだけなく、ブルースの基礎を形作った人物である。彼の生み出す規則的なビートは、労働歌(プランテーションソング)の延長線上にあり、肥沃したミシシッピ流域の大自然を寿ぐかのようなヴォーカルスタイル。

 

もちろん、言うまでもなく、ギタリストとしても革新的技法を生み出している。ボトルネックの代わりに瓶口を使ったスティールギター、独特なうねるようなスクイーズギターの技法に加え、ギターのボディーを叩いて歌に生々しい脈動、ビートを与えるのがパットンのブルースである。サン・ハウスに比べ、ゴルペル要素は薄く、黒人労働歌「フィールドハラー」の直系にある泥臭い音楽(Dirt Blues)として歴史的価値を持つ。

 

他にも、チャーリー・パットンの代表曲には、1920年代に起きたミシシッピ川の氾濫を叙事詩として歌いあげた「Missisippi Bo Weavil Blues」。それから「Down The Dirt Blues」等がある。 

 

 

・Son House

 

Father Of the Delta Blues:The Complete 1965 sessions 




 

チャーリー・パットンと共に、デルタ・ブルースの第一人者にも数えられるサン・ハウス。

 

二十五歳まで教会で牧師をつとめた後、ブルースマンに転向、デルタ・ブルースの基礎を築き上げた偉大なブルースマン。

 

既に一般的に言われているように、スライド・ギターに革新性をもたらしたギタリストである。

 

特に、サンハウスは、黒人教会の儀式音楽の一つ、ゴスペルからの影響が色濃い。そして、実際に、演奏なしの正調のゴスペル曲も彼の作品コレクション中には見られる。

 

サン・ハウスの主な歴史的な功績は、「ブルース」という音楽に、教会音楽で培われた教養を元に、楽節という形式を与えたことにある。つまり、それまでのブルースに西洋音楽のような整合性を与えたと言える。

 

これは、まさに、サン・ハウスの黒人教会の牧師としてのキャリアが音楽の作曲において上手く活かされた事例である。

 

後の伝説的なブルースギタリスト、ロバート・ジョンソンもこのブルースギタリストにあこがれて、デルタ・ブルースを演奏し始めたのだ。もちろん、デルタ・ブルースの基礎をつくり挙げた偉大な人物ではあるが、サン・ハウスの音楽性には、黒人教会でうたわれるゴスペルの系譜、ソウルやR&Bの源流が流れていることもひとつ付け加えておきたい。



・Robert Johnson

 

「King of The Delta Blues」 

 



 

ご存知、ロバート・ジョンソンは、”クロス・ロード伝説”にも現れている通り「十字路で悪魔に魂を売った男」と呼ばれた伝説的ギタリスト。

 

ブルースの名盤選にはアルバート・キングやジョン・リー・フッカー、マディ・ウォーターズと必ず紹介される伝説のブルースマンである。その生涯は、27年と短かったにもかかわらず、他のブルースギタリストに比べ、カリスマ的魅力を放つミュージシャンである。

 

とにかくこのロバート・ジョンソンは、「クロス・ロード」というブルースの伝説的な名曲を遺した大きな功績により、後世のギタリストから、一般的な音楽愛好家にも敬愛されるようになったといえる。

 

ロバート・ジョンソンの楽曲にはサン・ハウスほどの色気はないにせよ、独特な陶酔したような雰囲気がにじみ出ており、それがブルースの代名詞のように語り継がれている印象を受ける。

特に、ガットギターのしなるような間のとり方は言わずもがなで、スクイーズ・ギターを使ってのロックの要素、ペンタトニック・スケール、ブルースのリズムの基本形を生み出した偉大なミュージシャンだ。

 

覇気のあるハミング、合いの手というのも、チャック・ベリーに端を発するロックンロールのルーツといえる。

 

ロバート・ジョンソンをリスペクトしてやまないロックミュージシャンが後を絶たないというのも至極うなずける話である。 

 


・John Lee Hooker

 

「That's My Story」 



 

ジョン・リー・フッカーは、後にデトロイトに移住し、ブルースの先にある「ブギー」というスタイルを最初に発明した偉大なギタリスト、ブルースシンガーである。

 

のちカルロス・サンタナと共に世界的なロックスターの座に上り詰めるわけなのだが、他でもないフッカーは数少ないデルタ・ブルースの流れを受け継ぐミュージシャンであることも忘れてはいけない。

 

彼の主な音楽家としての功績は「Boom Boom」という伝説的なロックの名曲に代表されるように、”ブギー”の原型のリズムやギターリフを構築したことに尽きる。

 

しかし、ジョン・リーフッカーとて、こういった音楽を無から生み出したわけでない、ミシシッピ生まれのブルースマンとして、ハウスやジョンソンのデルタ・ブルースの濃密なグルーブ感を、リアルタイムで肌で直に感じ取っていたから、”ブギー”というこぶしの効いたスタイルを生み出すに至った。

 

表向きのジョン・リー・フッカーの名盤としては「Boom Boom」を収録したアルバムということになるが、しかし、彼の音楽の重要なルーツは、中期のブギーを奏で始める以前の時代、デルタ・ブルースにある。ジョン・リーフッカーの初期の音楽性には、ブルース音楽を介して試行錯誤を重ねながら、次世代の新たなブラック・ミュージックを生み出そうとする硬派なギタリストとしての精神が垣間みれるわけなのである。

 

オリジナル盤だけにとどまらず、ライブ盤も数多くの名作がリリースされているため、一枚だけを例示し、これを聴いてくれと取り上げるのはあまりフェアではないが、フッカーのプランテーションソングに対する深い敬愛を伺わせる「That’s My Story」1960は、珍しくデルタ・ブルースギタリストとしての矜持が伺えるブルースの重要な名作である。

 

この初期の作品「That's My Story」は、ミシシッピ発祥のブルースのラストヒーローとしての目のくらむほどの偉大な風格が漂っている。ブルースの中で最も泥臭いと言われるデルタブルースの音のニュアンスを掴むための手がかりとなる重要な作品である。



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